小舎人童の源氏物語日記

源氏物語を広めています。

和泉式部日記の事

どうも。小舎人童です。

今日は僕が登場する「和泉式部日記」についてお話したいと思います。

 

 

☆物語と日記☆

実は「平家物語」が事実をもとにしたものなので、

源氏物語」も半分ノンフィクションだと思っている方に

出会ったことが何回もあります。

 

平家物語」は琵琶法師が語り歩いていたものを

誰かが文章にまとめたと言われているので、

音読に適した文体になっていますし、

場面を盛り上げるような脚色もあり、

全てがノンフィクションとは言えないですが、

物語という名のノンフィクションとは言えるでしょう。

 

源氏物語」は宮中が舞台の完全なるフィクションです。

光源氏のモデルには数人の実在する貴公子の名前が

挙げられていますが、

ひとり、というよりミックスなのではないかなぁと思います。

あまりに文章にリアリティがあるので、

後世のみなさんが半分実話なのでは?と考えてしまうのも

無理はありませんが。

 

「〇〇日記」というタイトルの平安文学は、日記なので実話です。

日記といっても男性の記録した日記と女性の日記ではまた違いがあります。

 

男性の場合は本当に記録。

何年何月何日に何があったかを記録するのが普通で、

後で事実を確認するのにも使っていたのでしょう。

 

女性の場合は日記という名の回想録で、

何年も間が空いていたりします。

 

 

☆「和泉式部日記」と女性の人生☆

さてさて、僕が冒頭に登場する「和泉式部日記」は、

和泉式部本人が書いていて、後世の年表によると、

1003年から1004年のたった一年間の恋愛の記録です。

読んでいただければ分かりますが、

もっとすごく長い期間に感じます。

 

恋人だった為尊親王が亡くなって、

すっかり意気消沈した一年間を過ごしていた和泉式部様のもとを、

為尊親王実弟敦道親王のお使いとして、僕が遣わされたのです。

僕はもともとは為尊親王にお仕えしていたので、

和泉式部様とは顔見知り。

懐かしいと喜んでいただき、

そこから帥の宮様(敦道親王)と和泉式部様の交流が始まり、

やがて恋愛に発展していきます。

 

和泉式部という方は和歌がお上手な事で有名で、

恋多き女と言われていましたが、

実際のところは他人が思うほどだったのかなぁと思います。

 

平安時代の女性は、結婚しても通い婚のため、

夫に若い新しい妻ができると、自然と離婚のようになり、

子どもも巣立つと身寄りがないまま

消息不明になっているケースがたくさんあります。

 

息を引き取る瞬間の記録がどこかに残っているような、

かなり身分の高い女性は幸せな方だといえるでしょう。

 

蜻蛉日記」の作者である、

藤原道綱母もやはり歌人として有名でしたが、

日記の中で、ご主人の藤原兼家をボロクソに言っていたりしています。

ご主人も自分も有名人なので、

書いたものは残ると分かっていたはずなんですけど、

あえて赤裸々に書いている。

 

源氏物語」を読んでいても、

女性が生きていくのが大変な時代だったとわかりますし、

和泉式部日記」でも、

先の人生を考えて悲嘆にくれる和泉式部の様子が分かります。

 


☆小舎人童(こどねりわらわ)って?☆

さて、小舎人童(こどねりわらわ)って名前なの?って聞かれそうですね。

名前ではなくて、仕事の通称です。

身分の高い方にお仕えして、雑用をする男の子の呼び名です。

 

平安時代やもっと昔の時代は、

本名で呼ばれることはほとんどありません。

まあ、身分が高くてえらいおじさんたちは別ですが、

女子どもはほとんどない。

これって、男尊女卑と思うかもしれませんが、

女性や子供を守るおまじないのようなものでもあるんです。

 

両親以外が本名でその人を呼ぶことはないし、人前でも呼ばない。

女性は本名を告げたら結婚の意思があるっていうことです。

 

ほら、万葉集の冒頭に、雄略天皇の御製歌があるじゃないですか。

「籠よみ籠持ち 堀串もよみ堀串持ち この丘に菜摘ます児

家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ

しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも」

 

この和歌は、野原で菜摘みしている女の子に、家と名前を尋ねて、

自分はこの国の天皇だとおっしゃっているのですが、

プロポーズのお歌です。(ナンパとも言えます、、、)

 

これで女子が家と名前を告げたらOKということですが。

、、、断れるのかなぁ???

 

では、では、また次回、お会いしましょう!